道産子のおおらかさ。
津軽のエキセントリック。
ふたつの交差。
函館発信のアルバム。
三上寛
危うくて、心配になる!でもそこがいい!
去年、函館にて、妖怪みたいな見た目で妖怪みたいな演奏をする夢の島の二階という2人組のバンドに出会いました。
新しいアルバムを聴かせてもらったらアレ…?でもなんだかニンゲン臭いな?もしかして人間だったのかな?
YAOAY(a.k.a笹口騒音)
中学で初めて出来た友達が作ったファーストアルバム。彼は当時大袈裟では無く身長が3m近くあった、よく屋上で自殺ごっこをした。フェンスからどれだけ手を離して落ちるマネをするかと言うものだ。ある日、彼は失敗してグラウンドに真っ逆さまになり、そのまま集中治療室に入り中学を卒業するまで目を覚まさなかった。そんな彼がバンドをはじめた、身長は後遺症により187.7センチに縮んでいたがバンドを始めたらしいです。
これは、出かけようとドアを開けたら目の前に落ちていた何の変哲もない物体、見上げた空を旋回していた不思議な紙、帰り道でうっかり踏みそうになってしまって嫌な顔してしまった思い出が部屋中に散乱しているウタの塊たちだ。
「なんだなんだ?怖い気がする。」
これが夢の島の二階の第一印象。
何が起こるのだろうか。はじめからおわりまで心臓が鳴る。
気がつけばおわりまで怖いもの観たさで楽しんでいる自分がいる。
『わたしたち』を聴いている間の気分は
なんだか映画を観ている間の気分に似ている。
(my bird warms a blanket for colette/阿部 成美)
「夢の島の二階」の新作アルバム『わたしたち』はリズム、ハーモニー、メロディーを通して感情と物語が心に沁みる音楽探求の旅への誘いである。
初めて「夢の島の二階」を見たとき、従来の彼らとは異なる歌と、独自のスタイルから深いメッセージが伝わってきて感動しました。
『わたしたち』ではライブの視覚的なストーリーテリングの要素が欠けてるものの、ブロードウェイミュージカルのようなタイミングとアグレッシブなアレンジにより印象深いメッセージを感じさせられる。この2名ユニットが3つの明確な声を活かしている:ボーカル・ギター・ドラム。
荒廃から挑戦、恐ろしさから親密さまで、9つの曲が織り込まれ「騒音肖像画」を成す。この音楽風景は、強烈なイメージと感情的な探求をもたらし、最終的には、はっきりとしたテーマにより結ばれる。それにより、アルバムのビジョンが伝わるのだ。
エミリオ(葉緑体クラブ)
いま、2018年に(水木しげる作品的な)「妖怪」に遭遇したとしたら?
得体が知れないから怖い気もするし、好奇心がくすぐられる気もする。
なにより本当は幼い頃からずっと彼らのことを知ってたはず。
だからどこかに懐かしい気持ちがこみ上げてくると思う。
そんな、怖がりながら慣れ親しんできた何かに遭遇した、だとか、夜中に近所を散歩してたらぜんぜん知らない神社に迷い込んでしまった、みたいな、そんな音楽です。
ゲーカーナトゥミ(匿名希望)
夢の島の二階の新作音源を聴かせていただき、その予想以上に洗練された響きに驚いている。
我々の世界では「洗練」などという在り方は完全に貶し言葉になるが、このバンドでの洗練はとても痛快という意味での洗練にあたる。多分にアウトサイダー的な資質を持ったヴォーカル森下氏の表現と、それを冷静な技術で受け止めるドラム蛯子氏のコンビネーションは、単なる2人組みバンドという関係性に留まらない。
森下氏が研いで飛散したおがくずを一瞬でおもしろい形の木材に固めてニスまで塗ってお客さんの目の前に提示する。完全な狂人を見ているはずの客は、狂気に気付かないまま宇宙に放り出されるか、もしくはそんなものを体験した事などすぐに忘れて帰宅してから食べる肉まんや玉子どうふの事なんかを考えるのだろう。
この日本にサイケデリックロックなんていうシーンがあるとすれば彼等は完全に受け入れられて然るべきバンドだ。
玉子どうふや肉まんに宇宙を感じるか、ファズとディレイがかかったギターソロにそれを感じるかは聴く人の自由ではあるが、夢の島の二階の音楽には定型化されたシーンは似合わない。函館という街でどういう生活があるのかは、俺は行った事が無いので想像がつかないが、東京でも札幌でも彼らの想像力をフォロー出来るシーンは存在しないように思う。そう思ってはいたのだが今回の音源の洗練されたサウンドを聴くにつけ、これは都会に紛れ込める余地があるのではないかと思う。
こういう音楽がどこの街のライブハウスでも存在していなければいけない。
小川直人
夢の島は夢だから、存在がないのかもしれない。でも、夢の島には雨が降るし温度もある。色も塗れるしおまじないもかけられる。思い出だってある。あるのにないのは、自分がいる場所とその島の間に夢があるから。夢の島の夢は自分の目の前にある。それが夢の島の二階であり、曲は島が浮かぶ海の流れで、詩は夢越しに見える島のシルエット。聞けば聞くほど島は大きくなり、形を変えていく。その終わらない変動がたまらなく心地よかったです。
ウルトラめばち子(漁礁)
数字も後ろ盾もないところで「ここはどこだ、おれはだれだ」って一緒になって唱えてみたけど、分裂してるかも定かじゃない、これはきっと童謡。
純度の高い優しみを感じながら狐と餅を食べようね。
うみのひかりありがとう。
ハシモニュウ
施設でルドヴィコ療法にかかっていた。
不気味な生き物達の唄、絶叫。
この夢は一体何なんだ。
夢の島の二階では時の夜明けからヴードゥーダンスが繰り返されてきた。
私達は夢の中の夢の中で目覚めているだけだ。
全○、セックスなんだ。
青森最後の詩人ひろやー
『どこにもないたましいの音たち。ライブが見たくなりました。』
まえだゆりな
北海道のバンドと聞けば、かつてNUMBER GIRLが解散ライブの聖地とし、その際のMCで向井秀徳氏が言及・列挙していた数多の、真空管の熱で暖を取りながら個的内省を繰り返し、雄大な北の大地に裏腹な、過剰とも言うべき轟音を爆発的に美しいメロディーで奏でていた伝説的バンドたちを、どうしても自分は思い出してしまう。
しかしながら、彼らの音源を一聴させて頂いた時に一抹の郷愁と共に連想した土地、それは遠く離れた、「大阪」であった。拍子抜けと共に混乱したが、聴いていく内にその理由が見えてきたので、以下にそれを記す。
遡ること10数年前、大阪を中心に関西ゼロ世代というムーブメントが起こった。細かい詳細はここでは控えるが、差して囁かれた「ボアダムスの子」というキャッチコピーが日々新奇なものを追い求める青春時代の自分に鮮烈な印象を与えたことを覚えている。
この運動の象徴的な点の一つとして、中心的バンドであったオシリペンペンズに(恐らく)始まり、熱心なリスナー・コレクターを産んだ(自分もその一人である)、コピー用紙に手描きした白黒ジャケットに、CDRを挟み、それをホッチキスで綴じただけの、よく言えばミニマル、悪く言えば雑、スタジオの一発録音をそのまま商品として売っていた。と言っても過言ではない様な、整音・パッケージングというデザイン・流通プロセスを放棄したが故の、アイデア、及び熱量を、そのまま形にするというスピード感を備えた作品が大量に生産された。(興味のある方は、不滅の名盤である、オシリペンペンズの「猫が見たライブ」をぜひ手に取ってもらいたい。)
そしてそれらは、東京・高円寺にある自主音源専門店「円盤」をアンテナショップに、全国よりどことなく似た匂い=大阪的な、を放ちながら集結した。(とは言え、条件として「本人が」納品することが定められており、店長自身による商品たり得るか?という、ある程度の精査は行われる)
それは、山塚アイ氏が行っていた様な、初期~中期のボアダムスが持っていた無国籍で文字通りのフリーなミュージックスタイルや、一名義一アイデアで多種多様なジャンルでのライブ・リリースを展開する、というバイタリティの影響であり、前述のコピーはここへと繋がる。(また、ボアダムスの結成が大阪を中心としていたことも大きな影響を与えていたであろうことは言うまでもない。)
これは技術の進歩・大衆化により、良くも悪くも誰もが録音・発表が出来てしまう恵まれた環境に裏打ちされたものではあったが、そういった即効性のあるアイデアをムーブメントの一端としてアーカイブすることに大変適していた。
もちろん、推して知るべしな見た目通りの完全に低クオリティな「ハズレ」も多かったが、オンライン、配信・ストリーミング以前の、一応は「モノ」として作品が生産されたことには大きな意味があり、集まったそれらには、完成度云々以前の「何か」があった。(円盤の田口店長も販売の選考基準をそこ、つまりその「何かを感じるか」に置いていたと聞いたことがある。)
長々と語ってしまったが、自分が彼らの音楽に感じた「大阪」は、地域としてのそれではなく、そんなかつてのムーブメントの代名詞としての「大阪」だったのである。
とは言え、現在に至るまでにその狂乱は代表格であるミドリのメジャーデビューや、上記した更なるスピード感を備えた配信サービスの充実などを機に飽和を迎え、いつしか衰退し、その後の活動も知れなくなったバンドがほとんどである。
ここで、勝手な憶測をすると、「夢の島の二階」というその名が示唆するのは、終息し、(CDRであるが故に)今となっては再生も敵わず、顧みられることも無くなったかつてのムーブメントの累々たるゴミの集積、東京都江東区に存在する高度経済成長の暗部、それを「夢の島」と呼んだアイロニーを汲んだ、「終わった」ものの再生産。そんな被虐めいた表明にも聞こえる。
しかしながら、彼らが居住するのはその「二階」なのである。
玉石混淆のゴミの山、時を経て(現在の夢の島の様に)ならされた土地に建てられたその「二階」に、彼らは君臨するのである。
その建築がこの先、どの程度の規模になるのかは知る由もないが、そこが日の当たる場所であることは確かだ。
「北海道」という土地からこういったバンドが出てきたこと、そして全国流通盤を世に問うことの意義は大きい。
片岡フグリ
(歌手、PHETISH/TOKYO代表、ELEPHANT NOIZ KASHIMASHI)